弁護士 合田雄治郎

合田 雄治郎

私は、アスリート(スポーツ選手)を全面的にサポートするための法律事務所として、合田綜合法律事務所を設立いたしました。
アスリート特有の問題(スポーツ事故、スポンサー契約、対所属団体交渉、代表選考問題、ドーピング問題、体罰問題など)のみならず、日常生活に関わるトータルな問題(一般民事、刑事事件など)においてリーガルサービスを提供いたします。

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クライミング

スポーツ事故と「経験」

1 今から10年ほど前に、私は岩場でクライミング中に、10メートル余り落下し、その間、岩壁に打ち付けられ最終的に木に激突して墜落が止まりました。
惨状の一部始終を側で見ていた妻は、私がロープを首に巻きつけて落ちてきたこともあり、その後の彼女の人生は私の介護で終わるのだと腹を括ったそうです。
幸いにして、脳に障害もなく、骨折等もせず、眉間付近を2針縫う程度の切傷と全身に打撲を負ったに過ぎませんでした。

2 私が墜落したルートは、中級クラス(5.11C)のクラック(岩の割れ目)で、以前に既に登ったものでした。
その日は、そのルートを久し振りにトップロープというスタイルで登ったところ思ったより簡単に登れたので、この際 レッドポイント(正式な登り方で完登すること)しておくか、という軽い気持ちで登り始めました。
ところが、核心部でスリップして落ち、その後2つのプロテクションが外れ、更にその下のプロテクションのカラビナがスリングから外れ、合計3つのプロテクションが効かなかったため大墜落となりました。

3 この大墜落には、沢山の要因が重なったと思われますが、最大の要因は私自身の油断であったと思います。
この時までに私は既に10年以上のクライミングの経験があり、クライミングによって大した怪我もしたことがなかったため、クライミングは安全なものだと錯覚してしまい、油断していたのだと思います。
「経験」を活かすも殺すも自分次第であるのですが、この時は「経験」を活かせなかった上に、「経験」に足をすくわれたような形になりました。

4 スポーツ事故をめぐる訴訟において、「経験」は通常、注意義務や安全配慮義務を重くさせる方向に働きます。「経験」が豊富であればあるほど、より注意深くなるはずですし、より安全にも配慮できるようになるはずだからです。
しかし、私の大墜落のようなケースがあることも頭に入れて、「経験」の上に胡座をかかず、「経験」を事故防止に活かしていきたいものです。

 

 

 

クライミングと危険

1 私は現在、山岳事故・クライミング事故の防止や登山・クライミングの安全に関わる調査・研究をしています。
調査・研究の一環として事故例をみていてつくづく思うことは、クライミングというのは危険な行為なのだという至極当たり前のことです。そして、クライミングをするにあたって危険とどのように向き合うべきか、ということを考えさせられます。
私は主としてフリークライミングをするので、フリークライミングを例にとって述べていきます。

2 事故の原因としては様々なものが考えられますが、その中で最も多いのはクライマー自身のミスを主原因とする事故です。
ロープを結び忘れた、ハーネス(安全ベルトのこと。ベルトの折り返しをしないと危険)のベルトの折り返しをしなかった、ボルダリングマットのないところに落ちてしまった等の命に係わる深刻なミスから、軽傷で済むような軽微なミスまで挙げるときりがないほどです。これらのミスは避けることができるものですし、避けるようにしなければならないものです。
しかし、絶対に安全なクライミングなどあるかと問われれば、これは否といわざるを得ません。避けようのない危険もあるからです。自然の中である程度の高さまで登るという行為をする以上、絶対に安全ということは考えられません。

3 では、もし絶対に安全なクライミングがあるとして、それをしたいかと問われても、私は否と答えます。
リスクを負いながら、これをコントロールするためにあれこれ格闘することが、私にとってのクライミングの重要な要素なのです。
私はたまに、ロープを結んでクライミングをしている最中に、きちんとロープを結んでいるか気になって、結び目を確認しまうときがあります。このようなときは大抵、精神的に萎縮してしまいパフォーマンスも低下してしまいます。危険を認識してはいるけれども、コントロールはできていないということなのでしょう。

4 クライミングをするに際して、その危険を認識しなければならないことは大前提です。その上で、認識するだけではなく、常に危険を意識し、コントロールするように努めなければならないのです。
このことは、「危険を認識する」というよりは、「危険を感じている」という方が適切な表現なのかもしれません。
登山も含めて、クライミングをするときには、いつも「危険を感じている」ことこそが、事故防止のために最も重要なのではないかと考えています。

 

 

 

 

世界で活躍する日本人クライマーと報道

少し経ちましたが、それでも未だにテニスの錦織圭選手の全米オープンでの大活躍は瞼に焼き付いています。
マスコミ各社は、こぞってこの話題を賑やかに取り上げました。

ただ私は少し複雑な思いでこの報道に接していました。

マイナースポーツとはいえ、フリークライミング(スポーツクライミング)においては、野口啓代さんが今年のワールドカップのボルダリング部門で通算3度目の年間チャンピオンを勝ち取り、安間佐千さんがワールドカップのリードクライミング部門で3年連続の年間チャンピオンを勝ち取るべく現在も戦っています。
また、彼らに続くクライマーもぞくぞくと成長し、世界の舞台で活躍し始めています。

もし、フリークライミングがオリンピック競技になれば、金メダルが獲得できる可能性がかなり高い競技であることは間違いのないところです。
ところが、この様な日本人クライマーの大活躍をどれだけの人が知っているのでしょうか。

マスコミのフリークライミングに対する冷遇によって、人々が知る機会を逸しているからだと思います。
確かに、テニスとフリークライミングとでは、その競技人口もメジャーの度合いもかなりの違いがあるでしょう。
しかし、日本人クライマーの世界の大舞台での活躍は、必ずや人々にエネルギーを与え、元気にしてくれるはずです。

マスコミの皆さんは、日本人クライマーの大活躍を報道しないことによって失うものの大きさを省みて欲しいと思います。

今週末10月25日・26日には、日本でリード部門のワールドカップが開催されます。
日本人クライマーが結果を残せるか否かに拘らず、彼らの奮闘ぶりが報道されることを切に希望します。

代表選考について(4)

1 これまでは、代表選考基準について、選手の側から考えてきましたが、今度はNF(国内競技連盟等)の側から考えてみましょう。

2 NFが考える、勝てる代表として選手Xを選びたいとします。

仮に選考試合が終わり、基準によればXが漏れてしまうからといって、NFが裁量を持ち出して強引にXを選ぶことができないのは、これまでの考察からお分かりのことと思います。

結果からみてXが漏れた基準とは異なる基準であればXが選考される余地がある場合でも、事後にではなく事前に、Xが選出されることも含めて戦略的に決めた基準を作成・決定するしかありません。

その基準は、Xの選出のみを目的としているのであれば著しく合理性を欠く可能性があります。
よって、基準においてX選出がNFの主観的目的の一つであるとしても、その基準は客観的・全体的にみて合理的なものでなければなりません。


3 NFの裁量内の判断についても触れておきます。

代表選考におけるNFの判断が裁量の範囲内の判断であったとしても、その判断にはある程度の合理的な理由が必要であるというべきでしょう。

例えば、当落線上の複数の選手から1名を選ぶという判断が裁量の範囲内であったとしても、恣意的に(好き嫌いで)選ぶことは著しく合理性を欠くといえ、過去の実績を勘案して選ぶことは合理性があるといえます。

4 これまでに小欄で4回にわたって代表選考について考えてきましたが、個人競技スポーツを中心としたものでした。

スポーツには様々なタイプがありますが、個人競技スポーツは選考基準の考慮要素を客観化し易く、これに対して、審査員の採点による団体競技スポーツは選考基準の考慮要素の客観化が難しいと言えます。

しかし、どんなタイプのスポーツにおいても、基準については「基準の客観化」と「基準の開示」という観点をもって作成・適用されるべきですし、裁量については「裁量権の広さ」とこれに伴う「責任の重さ」という観点をもって行使されるべきです。

そして最終的には、選手もNFも出来得る限り納得のいく代表選考をして欲しいと思います。  【おわり】

 

 

 

代表選考について(3)

1 前回、個人競技スポーツについて、代表選考の基準例を3例挙げ、具体的に検討しました。

そこで取り上げた
【基準例3】「代表選考の対象試合A、B、Cの各5位以内を得点対象とし、1位を5点、2位を4点、3位を3点、4位2点、5位を1点とし、合計点の多い選手から3名の代表を決める。」
について、もう少し考えてみたいと思います。

2 この基準例は、一見すると十分に客観化された基準のように思われます。

しかし、それでも選手には、

「この基準では3試合出た方が有利だが、3試合も出たら疲れてしまうのではないか」(①)、

「試合によって重要度や参加選手が異なるのに、全く同じ配点をしているが、そもそも基準として適切なのか」(②)

「この基準では、合計点が同点だったときは、どのように決めるのか明らかでない」(③)

などの疑問があるかもしれません。

疑問①は、選手側でどのようにすれば代表になれるかを考えて、解決すべき問題といえるでしょう。

疑問②について、基準自体が著しく不合理でない限りは基準として有効でしょう。
NF(国内競技連盟等)は基準の適用よりも基準の作成・設定について、より広い裁量を有しているといえるからです。

疑問③については、合計点が同点の場合の決め方を予め明示しておくべきです。
ただ、明示がないとしても、同点の選手の中から代表を選ぶのは、その選択肢の狭さから、一般的にはNFの裁量の範囲内といえると思われます。

3 基準の作成・設定について、もう少し述べます。

前述のように、NFは基準の作成・設定について広い裁量を有しています。
これは、基準の作成・設定には様々な要素の考慮が必要なのであり、その判断を縛ってしまうと、硬直的で適切とはいえない基準となってしまうおそれがあるからです。

基準の作成・設定について、広い裁量が認められるにしても、その基準で選考された代表が期待された活躍が出来なかった場合には、その責任は基準作成・設定者が負うべきものだと考えます。
というのも、権利(権限)を行使する者は、その結果に対する責任を負うべきだからです。

そして、裁量権という権限を広く認めれば、それだけ結果に対する責任の重さも増すというべきです。
このことは、サッカーのWCで、代表選考をした監督が、結果を出せなかったため、その責任を負い辞任するということにも表れています。

4 先に述べた選手の疑問①~③のように、開示された選考基準に疑義があるのであれば、NFに対して積極的に説明を求めてみるべきものと思います。

特に疑問③の同点の場合のように、予め基準を示すことが可能であるものは、基準の明示を求めるべきです。

仮に選手の主張を選考基準に直截に反映させることが、そのときは難しいとしても、次回の選考の際には、その主張が取り入れられることも十分あり得ます。

5 次回最終回では、NFの側から、代表選考について考えていきたいと思います。

 

 

 

 

代表選考について(2)

1  ある個人競技スポーツにおいて、世界大会の代表を選ぶ基準として、以下のものがあったとします。

【基準例1】「代表選考の対象試合A、B、Cに出場した者を対象とし、3名の代表を決める。」

【基準例2】「代表選考の対象試合A、B、Cに出場し、各試合の5位以内に入った者を対象とし、3試合の成績を総合的に勘案して3名の代表を決める。」

【基準例3】「代表選考の対試合A、B、Cの各5位以内を得点対象とし、1位を5点、2位を4点、3位を3点、4位を2点、5位を1点とし、合計点の多い選手から3名の代表を決める。」

これらの基準例は、前回小欄で挙げた、代表選考基準に必要な「基準の客観化」と「基準の開示」という要素を満たすでしょうか。

2 個人競技は団体競技と比べて、選考基準を客観化し易いとはいえ、あらゆる事態を想定し、全ての要素を客観化して選考基準を設けることは困難でしょう。
したがって、可能なだけ基準を客観化したとしても、当落線上のどの選手を選出するかの判断が微妙なときがどうしても出てきます。
その場合、原則として、NF(国内競技連盟等)は最終的に代表を決することができます。

このように、判断権者が判断できる幅(範囲)のことを、法的に「裁量」と呼びます。
代表選考の最終的判断において、NFには裁量が認められるのですが、その裁量の幅は決して広くはないと考えるべきです。
というのも、裁量の幅が広いとすれば、その幅の中がブラックボックスのようにNFが自由に決められることになり、「基準の客観化」と「基準の開示」の意味がなくなってしまうからです。

3 それでは、上記の3つの基準例を検討していきましょう。

(1) 基準例1は、対象試合はどの試合かわかるものの、これでは選手がどのような成績を収めれば良いか明らかになったと言えません。

基準としては、客観性に欠けるため不適切だといえますし、不透明な部分は開示されたとはいえないので、その点でも不適切であると言わざるを得ません。

裁量については、NFに認められる裁量の幅を広く認める立場に立ったとしても、基準例1は明らかに裁量の幅を超えているのではないでしょうか。

(2) 基準例2はどうでしょうか。

基準例1よりは客観化されたとは言えますが、選手としては未だ基準が曖昧だと感じると思います。
3試合で5位以内であれば、最大15名が候補となりますが、15名を3名に絞る基準が「3試合の成績を総合的に勘案して」と曖昧なものしか示されていないからです。

裁量の点では、不合理な判断をしない限りは裁量の範囲内ということもいえますが、元々裁量の幅が狭くあるべきという立場を取るなら、裁量の範囲を逸脱しているともいえます。
「基準の客観化」と「基準の開示」の観点からは、後者の裁量の幅が狭いとの立場をとるべきものと考えます。

(3) それでは、基準例3はどうでしょうか。

この基準であれば、選手としては、選出を目標として、かなり戦略的にトレーニングができると思います。

また、この基準に基づいた最終的な判断は、仮に裁量の幅は狭いとする立場に立ったとしても、NFの裁量の範囲内ということになると思われます。

4 基準例3は、一見すると十分に客観化された基準のように思われますが、それでも選手には「同点だったときは、どのように決めるのか」、「この基準では3試合出た方が有利だが、3試合も出たら疲れてしまうのではないか」、「試合によって重要度や参加選手が異なるのに、全く同じ配点をしているが、そもそも基準として適切なのか」などの疑問があるかもしれません。

次回は、この続きから、もう少し考えてみたいと思います。

 

 

 

代表選考について(1) 

1 オリンピック、とりわけ2020年の東京オリンピックに出たいと考えてトレーニングに励んでいる日本のアスリートは少なくないと思います。

オリンピックやワールドカップなどの大きな国際大会には、通常は誰でも出られる訳ではなく、国内競技連盟等(以下、NF(national federation))が最終的に代表を決めます。

その決め方は、各スポーツのNFにより様々です。

2 サッカーや野球などの団体スポーツにおいては、監督等が想い描くチームになるよう代表を選ぶことが多いようです。

ともすれば、監督等の恣意、いわば好き嫌いで代表が選ばれるおそれもあります。

しかし、代表の選考に当たっては、チーム内での役割分担や他の選手との調和もあるので、客観的な物差しを提示することは難しい面があります。

そこで、監督等に選考を任せる代わりに、結果についても責任を取らせるということになっているのです。

3 これに対して、個人競技においては、個人の結果が全てであり、チームという概念は希薄で、他の選手との調和という要素も殆ど考慮する必要がありません。

そこで、大会直近の指定された大会での成績など、ある程度の客観的な物差しで代表を決めることが可能です。そして選考の責任はNFが一切を負うべきものです。

4 個人競技における代表選考について、重要なのは二点です。

一つは、選考基準はできるだけ客観的なものにすべきこと(基準の客観化)、もう一つは、選考基準を予め開示しておくこと(基準の開示)です。

これは選手の側から考えてみると、ごく当たり前のことだと思います。


その大会に出たい選手は、選考基準が明らかになっていれば、その基準をクリアするという具体的目標(例えば、選考の対象試合での達成すべき成績)をもってトレーニングができます。

また、仮に基準を満たすことができず代表に選考されなくても、それは基準をクリアできなかった自らの責任であると諦めもつくと思われます。

5 今回はここまでとし、次回は具体的な選考基準について考えていきたいと思います。

アンチドーピング講習会

1 3月22日、23日に、「クライミング・日本ユース選手権2014」(於 千葉県印西市松山下公園総合体育館)が開催され、そこで合わせて催されたアンチドーピング講習会の講師を務めました。
 受講者は、ユースやジュニアの選手、その保護者、指導者などでした。

  そこでは、受講者の皆さんに以下の問題を考えてもらいました。

事例1】 
 クライマーAが風邪をひきました。
 そこで、昔からのかかりつけの医者の先生が「ドーピング違反とはならないから大丈夫だ」と言っていた風邪薬を飲みました。
 その後試合に出て、ドーピング検査の対象となり陽性となりました。
 Aはドーピング違反となるでしょうか?

事例2】 
 クライマーBは、普段からドーピング違反にならないように気を付けていました。
 ところが、試合でドーピング検査の対象となり、陽性となってしまいました。
 これは、アイソレーションルームで、Bと熾烈なポイント争いをしていたクライマーXが、Bがトイレに行った隙に巧妙に飲み物に禁止物質を入れたからでした。
 Bはドーピング違反になるでしょうか?

事例3】 
 クライマーCはコンペで決勝の常連でしたが、その試合はたまたま調子が悪く、決勝に残れませんでした。
 Cはとても気落ちして、そのまま帰ってしまいました。
 なお、Cは、禁止物質を一切採っておらず、実際に禁止物質は身体に入っていませんでしたが、ドーピング検査の通知を受けていました。
 Cはドーピング違反になるでしょうか?

事例4】 
 クライマーDは、持病の治療のため、薬Mを飲む必要がありました。
 ただ、薬Mは、禁止物質にあたり、代用となる薬がなく、Dは薬Mを飲まないと病状が悪化します。
 Dは、仕方なく薬Mを飲んで、ドーピング検査対象にならないことを祈って試合に臨みましたが、運悪く検査対象となり、陽性となりました。
 Dはドーピング違反となるでしょうか?

3 事例1~事例4のクライマーA,B,C,Dはとても可哀想ですが、全員がドーピング違反になるというのが正解でした。講習会を二回行い、全問正解した受講者は、一回目(20人程度)では3~4人、二回目(35人程度)では0人でした。

 若干の解説を加えます。
 事例1と事例2、事例4については、検体の検査結果が陽性だったという理由で、有無を言わせずドーピング違反となることを理解してもらうための事例問題でした。すなわち、検査結果が陽性になると、「意図的」であれば当然、「うっかり」(過失)でも、「これはあまりに可哀想だよね」という場合でも、ドーピング違反に該当するのであり、過失等がないということは反論の場で主張していくしかありません。
 事例3については、身体に禁止物質が入っていなくても、検査の拒否という理由でドーピング違反となることを知ってもらうための事例問題でした。
 また、事例4については、TUE(治療目的使用に係る除外措置)を申請すべき事例でした。

 なお、違反に対する処分はその試合の成績の失効と資格停止2年間が原則であることは、半数以上の受講者が知っていました。

  ちょっと意地悪な問題だったかもしれません。しかし、限界事例を考えてみることで、リスクと向き合い、リスクを管理しようと努め、「自分の身は自分で守らなければならない」ということを肝に銘じて欲しかったのです。

 これはクライミングにおいても同様で、自身の安全は自分で管理しなければなりません。クライミングでは、一つのミスが命取りにもなりかねないからです。

 クライミング、特に岩場でのクライミングでは、リスクは常に付きまといますし、またリスクをコントロールしてこその醍醐味があります。受講してくれたユースのクライマーには、ドーピングを含めた様々なリスクと上手く付き合いながら、更なる高みを目指してもらいたいと心から思います。

 

 

ドーピングはなぜ禁じられるのでしょうか。

 正直に告白すると、私はドーピングがなぜ禁止されるのか、よくわかりませんでした。すっと腑に落ちないのです。
 スポーツの本質の一つとして限界を追い求めていくということがあるのならば、ドーピングを禁止せずドーピングも含めて「何でも有り」で限界を追い求めれば良いのではないかとも思えたのです。
 また、ドーピングは誰か他者の人権を明確に侵害しているとまではいえないので、それは明らかに悪いことだといえない難しさがあると思います。

 一般に、ドーピング禁止の理由として、(1)フェアプレーの精神に反する、(2)アスリートの健康を害する、(3)反社会的行為である、ということが挙げられます。
 これらの理由には、表面的には納得がいくものの、胸を張ってこれらを人に説明できるかと言えばとてもそんなことはありませんでした。
 (1)については、「そもそもフェアプレーって何?」と問いたくなります。フェアプレー精神の定義の中には「ルールを守ること」というものもあり、ドーピング禁止というルールを決めるのに、ルールを守ることが理由となっては論理が循環してしまいます。
 (2)についても、多かれ少なかれトップアスリートは健康を害するか否かギリギリのところでハードなトレーニングしているわけで、これを理由にするのは難しいと思います。
 (3)反社会的行為というのも、日本の社会が反ドーピングに対してどれほどの認識・理解があるかといえば、心許ない限りです。

 ところが、自転車界の内実を書いた「シークレット・レース」(タイラー・ハミルトン、ダニエル・コイル 小学館文庫)を読んで、ドーピングというものの罪深さが少なからず理解はできた気がします。
 この本では、つい最近まで、自転車界ではドーピングをすることなしにトップサイクリストとしてレースの上位にいることは限りなく不可能であったことがリアルに綴られています(この本は、読み物として優れているだけでなく、スポーツとは何かということまで考えさせてくれ、お薦めです)。
 自転車界では長らく、ツービートの「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というギャグを地でいっている感がありました。ただ、当時のトップサイクリストは、ドーピングをして楽をしていたわけではなく、ドーピングをした上で凄まじいトレーニングをして、その座を維持していたのです。そして、自転車界では、ドーピング禁止という赤信号を無視して渡らない限りは、対岸のトップサイクリストの地位に辿り着けなかったのです。しかも、その赤信号はいつまで経っても青に変わらず、ドーピングをしないことは残念ながらトップサイクリストの地位を諦めることを意味すると信じられていたのです。

 このような不幸な状況を打開するために、やはりドーピングは禁止せざるを得ないし、禁止すべきなのだと思いました。
 ただし、だからと言って現状のようなトップアスリートに対する度を超えた監視や厳しすぎる制裁を課すことが本当に必要なのかはまだまだ議論の余地があると思います。ドーピングを巧妙に行う側とドーピングを何としても規制しようとする側とがイタチごっこをして、これまで圧倒的に前者が後者を出し抜いていたがために、このようなとりわけ厳しいルールとなったのかもしれません。
 とはいえ、現にルールとして存在する以上、アスリートとしてはドーピングに関するルールを遵守せざるを得ません。私が第一になすべきことは、アスリートにドーピングをしている認識がないのにうっかりして陽性反応が出るようなことが、間違ってもないように、アスリートの注意を喚起することだと考えています。一度、陽性反応が出ると、これを覆すことは相当困難であり、仮に覆ったとしても、ダーティーなイメージが残存する可能性が高いからです。

 一部のトップアスリート(トップクライマー)には、基本的な仕組みや気を付けるべきことを話しました。まだまだ、若いこれから世界で活躍しようとしているアスリートにドーピングのことを知ってもらう必要があると思っています。
 ドーピングにまつわる事柄はとかく後ろ向きな感が否めませんが、事が起こってからでは殆どの場合は手遅れである以上、アスリートはドーピングに常に関心を持ち、常に注意していただきたいと思います。
                                                              

 

 

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