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スポーツ中の選手同士の事故における損害賠償
1 スポーツ中の選手同士の事故で深刻な傷害を負わされたにもかかわらず、加害者側が不誠実な態度をとったり、生じた損害の賠償をしなかったりなどということがあります。
そのような場合に、スポーツはそもそも危険が想定されている、仲間を訴えるのは気が引ける、などの理由で損害賠償請求を諦め、泣き寝入りなどしていないでしょうか。
2 確かに、ボクシングなどの殴り合うスポーツやラグビーなどの身体の接触を前提としているスポーツでは、傷害を負わされたとしても、ルールの範囲内でのプレーによるのであれば損害賠償請求は難しいかも知れません。
しかし、いくらスポーツ中の事故であっても、ルールに反するプレーによって後遺障害が残るような傷害を負わされた場合に、加害者が何も責任を負わないということは、社会通念に反すると共に、損害の公平な分担という法の理念に悖ります。
また、加害者に損害賠償請求をすることは仲間を訴えるという側面がありますが、訴訟による損害賠償請求を決意するに至る場合、大抵は加害者の不誠実な態度が大きな原因であり、そのような不誠実な態度をとる人はもはや仲間とは言えないのではないでしょうか。
3 スポーツの世界では、昨今、体罰が当たり前とされていた悪習が改まり、体罰という暴力の行使は一切許されないという流れに変わりつつあります。
同じように、スポーツ中の選手同士の事故においても、損害の賠償はされなくて当たり前などという考えを改めて、傷害を負わせた側は傷害を負った選手に対し適正な損害額を必ず賠償をしなければならないという考えを一般化すべきであると思います。
そして、このような流れを作り、安心してスポーツが楽しめるようにするためにも、ときには裁判という場できちんと主張し、認めさせていくことも必要であると考えます。
スポーツ事故と「経験」
1 今から10年ほど前に、私は岩場でクライミング中に、10メートル余り落下し、その間、岩壁に打ち付けられ最終的に木に激突して墜落が止まりました。
惨状の一部始終を側で見ていた妻は、私がロープを首に巻きつけて落ちてきたこともあり、その後の彼女の人生は私の介護で終わるのだと腹を括ったそうです。
幸いにして、脳に障害もなく、骨折等もせず、眉間付近を2針縫う程度の切傷と全身に打撲を負ったに過ぎませんでした。
2 私が墜落したルートは、中級クラス(5.11C)のクラック(岩の割れ目)で、以前に既に登ったものでした。
その日は、そのルートを久し振りにトップロープというスタイルで登ったところ思ったより簡単に登れたので、この際 レッドポイント(正式な登り方で完登すること)しておくか、という軽い気持ちで登り始めました。
ところが、核心部でスリップして落ち、その後2つのプロテクションが外れ、更にその下のプロテクションのカラビナがスリングから外れ、合計3つのプロテクションが効かなかったため大墜落となりました。
3 この大墜落には、沢山の要因が重なったと思われますが、最大の要因は私自身の油断であったと思います。
この時までに私は既に10年以上のクライミングの経験があり、クライミングによって大した怪我もしたことがなかったため、クライミングは安全なものだと錯覚してしまい、油断していたのだと思います。
「経験」を活かすも殺すも自分次第であるのですが、この時は「経験」を活かせなかった上に、「経験」に足をすくわれたような形になりました。
4 スポーツ事故をめぐる訴訟において、「経験」は通常、注意義務や安全配慮義務を重くさせる方向に働きます。「経験」が豊富であればあるほど、より注意深くなるはずですし、より安全にも配慮できるようになるはずだからです。
しかし、私の大墜落のようなケースがあることも頭に入れて、「経験」の上に胡座をかかず、「経験」を事故防止に活かしていきたいものです。
クライミングと危険
1 私は現在、山岳事故・クライミング事故の防止や登山・クライミングの安全に関わる調査・研究をしています。
調査・研究の一環として事故例をみていてつくづく思うことは、クライミングというのは危険な行為なのだという至極当たり前のことです。そして、クライミングをするにあたって危険とどのように向き合うべきか、ということを考えさせられます。
私は主としてフリークライミングをするので、フリークライミングを例にとって述べていきます。
2 事故の原因としては様々なものが考えられますが、その中で最も多いのはクライマー自身のミスを主原因とする事故です。
ロープを結び忘れた、ハーネス(安全ベルトのこと。ベルトの折り返しをしないと危険)のベルトの折り返しをしなかった、ボルダリングマットのないところに落ちてしまった等の命に係わる深刻なミスから、軽傷で済むような軽微なミスまで挙げるときりがないほどです。これらのミスは避けることができるものですし、避けるようにしなければならないものです。
しかし、絶対に安全なクライミングなどあるかと問われれば、これは否といわざるを得ません。避けようのない危険もあるからです。自然の中である程度の高さまで登るという行為をする以上、絶対に安全ということは考えられません。
3 では、もし絶対に安全なクライミングがあるとして、それをしたいかと問われても、私は否と答えます。
リスクを負いながら、これをコントロールするためにあれこれ格闘することが、私にとってのクライミングの重要な要素なのです。
私はたまに、ロープを結んでクライミングをしている最中に、きちんとロープを結んでいるか気になって、結び目を確認しまうときがあります。このようなときは大抵、精神的に萎縮してしまいパフォーマンスも低下してしまいます。危険を認識してはいるけれども、コントロールはできていないということなのでしょう。
4 クライミングをするに際して、その危険を認識しなければならないことは大前提です。その上で、認識するだけではなく、常に危険を意識し、コントロールするように努めなければならないのです。
このことは、「危険を認識する」というよりは、「危険を感じている」という方が適切な表現なのかもしれません。
登山も含めて、クライミングをするときには、いつも「危険を感じている」ことこそが、事故防止のために最も重要なのではないかと考えています。
世界で活躍する日本人クライマーと報道
少し経ちましたが、それでも未だにテニスの錦織圭選手の全米オープンでの大活躍は瞼に焼き付いています。
マスコミ各社は、こぞってこの話題を賑やかに取り上げました。
ただ私は少し複雑な思いでこの報道に接していました。
マイナースポーツとはいえ、フリークライミング(スポーツクライミング)においては、野口啓代さんが今年のワールドカップのボルダリング部門で通算3度目の年間チャンピオンを勝ち取り、安間佐千さんがワールドカップのリードクライミング部門で3年連続の年間チャンピオンを勝ち取るべく現在も戦っています。
また、彼らに続くクライマーもぞくぞくと成長し、世界の舞台で活躍し始めています。
もし、フリークライミングがオリンピック競技になれば、金メダルが獲得できる可能性がかなり高い競技であることは間違いのないところです。
ところが、この様な日本人クライマーの大活躍をどれだけの人が知っているのでしょうか。
マスコミのフリークライミングに対する冷遇によって、人々が知る機会を逸しているからだと思います。
確かに、テニスとフリークライミングとでは、その競技人口もメジャーの度合いもかなりの違いがあるでしょう。
しかし、日本人クライマーの世界の大舞台での活躍は、必ずや人々にエネルギーを与え、元気にしてくれるはずです。
マスコミの皆さんは、日本人クライマーの大活躍を報道しないことによって失うものの大きさを省みて欲しいと思います。
今週末10月25日・26日には、日本でリード部門のワールドカップが開催されます。
日本人クライマーが結果を残せるか否かに拘らず、彼らの奮闘ぶりが報道されることを切に希望します。
未成年アスリートの後見的保護
1 軟式野球の全国高校選手権において延長50回で決着がついた試合があったということで、マスコミ各社が賑やかに報道したことは記憶に新しいところです。
また、同じころ、アメリカで未成年者の保護者の団体がFIFA等を相手取り脳震盪(のうしんとう)の原因となるヘディングを規制すべきだとして、提訴したと報じられました。
これらは、未成年アスリート(とりわけ18歳以下)の後見的保護という同じ問題を孕んでいます。
2 高校軟式野球の延長50回の熱戦をドラマ仕立てに取り上げる向きも多く見受けられますが、過酷な条件下で長時間にわたり選手たちを戦わせることをどう考えるべきでしょうか。
もちろん、最後まで戦い抜き、ドラマを生み出した選手たちには惜しみない賛辞が送られるべきです。
そしてこのような辛さを耐え抜く経験をすることは、彼らの大きな財産になるということもあり得ると思います。
しかし、このことが選手たちにどれ程のダメージを与えるかを考えてみてください。
炎天下、連続4日間トータル50回も野球をするのです。投手の肩をはじめとする身体に与えるダメージの大きさはもちろんのこと、野手にとっても、そのダメージの大きさは計り知れないでしょう。このダメージが野球選手としての将来を損なったり、奪ったりする可能性があるのではないでしょうか。
適正なルールの元でもドラマは生まれますし、得難い経験もできます。ドラマが生まれたから、あるいは得難い経験ができたから、ルールを変える必要が無いというのは、それは本末転倒と言えます。
私は、未成年の選手に対して悪影響を及ぼす可能性が少なからずあるのであれば、早期にルールを改正し、そのような悪影響を排除すべきだと考えます。
3 ヘディングの規制問題についても、同じように考えてみましょう。
サッカーでヘディングを規制するなんて馬鹿げている、と思うサッカー経験者や愛好者の方がいらっしゃるかもしれません。
ところが、未成年者がヘディングを行うことによって脳震盪となり、重い障害を負ったり、最悪の場合死亡したりする危険(二度目の脳震盪は特に危険であることが報告されています)があります。
大多数の未成年アスリートやその家族は、その様なリスクを負ってまでスポーツをしたいと願ってはいないでしょう。
楽しいはずのスポーツによって、未成年者の将来を奪ってしまったり、狂わせてしまったりすることは、あってはならないことではないでしょうか。
また、将来プロを目指すような未成年のトップアスリートにとって、ヘディングを規制されることは、大きなマイナスに感じるかもしれません。
そうはいっても、ヘディングにより死の危険すらあるのであれば、それは選手生命以前の問題ですし、プロを目指したからといって必ずプロになれる訳でもなく、プロにもなれずに障害を負うという最悪の事態は避けなければなりません。
このようなことから、本来のサッカーの姿から少し離れるとしても、やはりヘディングは規制せざるを得ないと考えます。
4 私は、危険であることを認識した上で、岩登り(フリークライミング)を愛好しています。
したがって、スポーツから全ての危険を排除せよ、といっているのではありません。
むしろ、危険を引き受けて、危険をコントロールしてこそ、スポーツの醍醐味があると思っています。
また困ったことに、私にはより危険な方を好むという傾向すらあります。
しかし、こと未成年者については、そのように危険を引き受けるには判断能力の点で未熟であることが多いと思われます。
あるスポーツが危険性を有していると判明したら、大人たち、すなわちスポーツを管轄する国、地方公共団体、当該スポーツの国内統括団体や保護者が、協力して、未成年者を後見的に保護していくべきです。
今後、我が国においてスポーツが発展していくためには、未成年アスリートの後見的保護という視点がより一層重視されていくべきであると思います。
スポーツと差別
1 大阪で開催された、スポーツと差別の問題を取り上げたシンポジウムに参加してきました。
その日は偶然にも新聞の一面で、国連人権差別撤廃委員会が日本政府に対して、ヘイトスピーチ問題に毅然と対処し、法律で規制するよう勧告したことが報じられていました。
日本という国と差別、そしてスポーツと差別ということを考えさせられる一日となりました。
2 差別の問題は、扱いが厄介ですが、スポーツと差別となると、より厄介になる面もあります。
よく言われることですが、スポーツはコミュニティ同士(一番大きなコミュ二ティは国でしょう)で競うことが多いことから、それが少し歪んだ形でエスカレートすると、差別の問題に発展しやすいといえます。
3 差別は当然に良くないのですが、差別か否かの線引きは極めて難しいのです。そしてさらに、差別的らしき行為がなされた場合に、それを差別だと認定することは、これまた困難を伴うことが多いといえます。
例えば、サッカーのスタジアムであるサポーターがバナナを食べてバナナの皮をピッチに投げ入れたとしましょう。
バナナの皮を投げる行為が、相手をサルに見たてて差別するという象徴的な行為として人々に認識される以前の話ならどうでしょう。
ピッチに白人選手しかいなかったらどうでしょう。
そのサポーターが有色人種ならどうでしょう。
4 こういった具合に差別か否かが微妙な事案は多種多様にあります。
差別行為 は差別意識の発露ともいえる行為で、差別意識があるならそれは間違いなく差別行為となります。
しかし、人の内心を見通すことはできません。その客観的な状況から判断せざるを得ないのです。
人の内心の意識の発露である行為が差別であるか否かの線引きやその事実認定がいかに困難であるのかが分かっていただけると思います。
5 しかし、だからといって、差別を許して良いはずもありません。この困難な作業を引き受け、一つ一つ遂行していくしかないのです。
差別が無くなるなどと楽観論を言うつもりはありませんが、それでも無くしていくという強い決意が必要だと思います。
一人の人間として、そのような矜恃を持っていたいものです。
6 では、スポーツに関わる弁護士としては、何をすべきなのでしょうか。
先に書いた差別か否かの具体的な線引きを試みること。
差別行為があったとされる場合の事実認定が迅速かつ適正に行われるようなシステムを構築すること。
差別行為を行った個人や団体が適正な手続に基づいて処分されるようルール作りをすること。
そして、このような活動を通じて差別が無くなるよう微力ながらも全力を尽くすことだと思っています。
代表選考について(4)
1 これまでは、代表選考基準について、選手の側から考えてきましたが、今度はNF(国内競技連盟等)の側から考えてみましょう。
2 NFが考える、勝てる代表として選手Xを選びたいとします。
仮に選考試合が終わり、基準によればXが漏れてしまうからといって、NFが裁量を持ち出して強引にXを選ぶことができないのは、これまでの考察からお分かりのことと思います。
結果からみてXが漏れた基準とは異なる基準であればXが選考される余地がある場合でも、事後にではなく事前に、Xが選出されることも含めて戦略的に決めた基準を作成・決定するしかありません。
その基準は、Xの選出のみを目的としているのであれば著しく合理性を欠く可能性があります。
よって、基準においてX選出がNFの主観的目的の一つであるとしても、その基準は客観的・全体的にみて合理的なものでなければなりません。
3 NFの裁量内の判断についても触れておきます。
代表選考におけるNFの判断が裁量の範囲内の判断であったとしても、その判断にはある程度の合理的な理由が必要であるというべきでしょう。
例えば、当落線上の複数の選手から1名を選ぶという判断が裁量の範囲内であったとしても、恣意的に(好き嫌いで)選ぶことは著しく合理性を欠くといえ、過去の実績を勘案して選ぶことは合理性があるといえます。
4 これまでに小欄で4回にわたって代表選考について考えてきましたが、個人競技スポーツを中心としたものでした。
スポーツには様々なタイプがありますが、個人競技スポーツは選考基準の考慮要素を客観化し易く、これに対して、審査員の採点による団体競技スポーツは選考基準の考慮要素の客観化が難しいと言えます。
しかし、どんなタイプのスポーツにおいても、基準については「基準の客観化」と「基準の開示」という観点をもって作成・適用されるべきですし、裁量については「裁量権の広さ」とこれに伴う「責任の重さ」という観点をもって行使されるべきです。
そして最終的には、選手もNFも出来得る限り納得のいく代表選考をして欲しいと思います。 【おわり】
代表選考について(3)
1 前回、個人競技スポーツについて、代表選考の基準例を3例挙げ、具体的に検討しました。
そこで取り上げた
【基準例3】「代表選考の対象試合A、B、Cの各5位以内を得点対象とし、1位を5点、2位を4点、3位を3点、4位2点、5位を1点とし、合計点の多い選手から3名の代表を決める。」
について、もう少し考えてみたいと思います。
2 この基準例は、一見すると十分に客観化された基準のように思われます。
しかし、それでも選手には、
「この基準では3試合出た方が有利だが、3試合も出たら疲れてしまうのではないか」(①)、
「試合によって重要度や参加選手が異なるのに、全く同じ配点をしているが、そもそも基準として適切なのか」(②)
「この基準では、合計点が同点だったときは、どのように決めるのか明らかでない」(③)
などの疑問があるかもしれません。
疑問①は、選手側でどのようにすれば代表になれるかを考えて、解決すべき問題といえるでしょう。
疑問②について、基準自体が著しく不合理でない限りは基準として有効でしょう。
NF(国内競技連盟等)は基準の適用よりも基準の作成・設定について、より広い裁量を有しているといえるからです。
疑問③については、合計点が同点の場合の決め方を予め明示しておくべきです。
ただ、明示がないとしても、同点の選手の中から代表を選ぶのは、その選択肢の狭さから、一般的にはNFの裁量の範囲内といえると思われます。
3 基準の作成・設定について、もう少し述べます。
前述のように、NFは基準の作成・設定について広い裁量を有しています。
これは、基準の作成・設定には様々な要素の考慮が必要なのであり、その判断を縛ってしまうと、硬直的で適切とはいえない基準となってしまうおそれがあるからです。
基準の作成・設定について、広い裁量が認められるにしても、その基準で選考された代表が期待された活躍が出来なかった場合には、その責任は基準作成・設定者が負うべきものだと考えます。
というのも、権利(権限)を行使する者は、その結果に対する責任を負うべきだからです。
そして、裁量権という権限を広く認めれば、それだけ結果に対する責任の重さも増すというべきです。
このことは、サッカーのWCで、代表選考をした監督が、結果を出せなかったため、その責任を負い辞任するということにも表れています。
4 先に述べた選手の疑問①~③のように、開示された選考基準に疑義があるのであれば、NFに対して積極的に説明を求めてみるべきものと思います。
特に疑問③の同点の場合のように、予め基準を示すことが可能であるものは、基準の明示を求めるべきです。
仮に選手の主張を選考基準に直截に反映させることが、そのときは難しいとしても、次回の選考の際には、その主張が取り入れられることも十分あり得ます。
5 次回最終回では、NFの側から、代表選考について考えていきたいと思います。
代表選考について(2)
1 ある個人競技スポーツにおいて、世界大会の代表を選ぶ基準として、以下のものがあったとします。
【基準例1】「代表選考の対象試合A、B、Cに出場した者を対象とし、3名の代表を決める。」
【基準例2】「代表選考の対象試合A、B、Cに出場し、各試合の5位以内に入った者を対象とし、3試合の成績を総合的に勘案して3名の代表を決める。」
【基準例3】「代表選考の対試合A、B、Cの各5位以内を得点対象とし、1位を5点、2位を4点、3位を3点、4位を2点、5位を1点とし、合計点の多い選手から3名の代表を決める。」
これらの基準例は、前回小欄で挙げた、代表選考基準に必要な「基準の客観化」と「基準の開示」という要素を満たすでしょうか。
2 個人競技は団体競技と比べて、選考基準を客観化し易いとはいえ、あらゆる事態を想定し、全ての要素を客観化して選考基準を設けることは困難でしょう。
したがって、可能なだけ基準を客観化したとしても、当落線上のどの選手を選出するかの判断が微妙なときがどうしても出てきます。
その場合、原則として、NF(国内競技連盟等)は最終的に代表を決することができます。
このように、判断権者が判断できる幅(範囲)のことを、法的に「裁量」と呼びます。
代表選考の最終的判断において、NFには裁量が認められるのですが、その裁量の幅は決して広くはないと考えるべきです。
というのも、裁量の幅が広いとすれば、その幅の中がブラックボックスのようにNFが自由に決められることになり、「基準の客観化」と「基準の開示」の意味がなくなってしまうからです。
3 それでは、上記の3つの基準例を検討していきましょう。
(1) 基準例1は、対象試合はどの試合かわかるものの、これでは選手がどのような成績を収めれば良いか明らかになったと言えません。
基準としては、客観性に欠けるため不適切だといえますし、不透明な部分は開示されたとはいえないので、その点でも不適切であると言わざるを得ません。
裁量については、NFに認められる裁量の幅を広く認める立場に立ったとしても、基準例1は明らかに裁量の幅を超えているのではないでしょうか。
(2) 基準例2はどうでしょうか。
基準例1よりは客観化されたとは言えますが、選手としては未だ基準が曖昧だと感じると思います。
3試合で5位以内であれば、最大15名が候補となりますが、15名を3名に絞る基準が「3試合の成績を総合的に勘案して」と曖昧なものしか示されていないからです。
裁量の点では、不合理な判断をしない限りは裁量の範囲内ということもいえますが、元々裁量の幅が狭くあるべきという立場を取るなら、裁量の範囲を逸脱しているともいえます。
「基準の客観化」と「基準の開示」の観点からは、後者の裁量の幅が狭いとの立場をとるべきものと考えます。
(3) それでは、基準例3はどうでしょうか。
この基準であれば、選手としては、選出を目標として、かなり戦略的にトレーニングができると思います。
また、この基準に基づいた最終的な判断は、仮に裁量の幅は狭いとする立場に立ったとしても、NFの裁量の範囲内ということになると思われます。
4 基準例3は、一見すると十分に客観化された基準のように思われますが、それでも選手には「同点だったときは、どのように決めるのか」、「この基準では3試合出た方が有利だが、3試合も出たら疲れてしまうのではないか」、「試合によって重要度や参加選手が異なるのに、全く同じ配点をしているが、そもそも基準として適切なのか」などの疑問があるかもしれません。
次回は、この続きから、もう少し考えてみたいと思います。
代表選考について(1)
2 サッカーや野球などの団体スポーツにおいては、監督等が想い描くチームになるよう代表を選ぶことが多いようです。
ともすれば、監督等の恣意、いわば好き嫌いで代表が選ばれるおそれもあります。 しかし、代表の選考に当たっては、チーム内での役割分担や他の選手との調和もあるので、客観的な物差しを提示することは難しい面があります。 そこで、監督等に選考を任せる代わりに、結果についても責任を取らせるということになっているのです。 3 これに対して、個人競技においては、個人の結果が全てであり、チームという概念は希薄で、他の選手との調和という要素も殆ど考慮する必要がありません。
そこで、大会直近の指定された大会での成績など、ある程度の客観的な物差しで代表を決めることが可能です。そして選考の責任はNFが一切を負うべきものです。 4 個人競技における代表選考について、重要なのは二点です。
一つは、選考基準はできるだけ客観的なものにすべきこと(基準の客観化)、もう一つは、選考基準を予め開示しておくこと(基準の開示)です。
これは選手の側から考えてみると、ごく当たり前のことだと思います。
その大会に出たい選手は、選考基準が明らかになっていれば、その基準をクリアするという具体的目標(例えば、選考の対象試合での達成すべき成績)をもってトレーニングができます。 また、仮に基準を満たすことができず代表に選考されなくても、それは基準をクリアできなかった自らの責任であると諦めもつくと思われます。 5 今回はここまでとし、次回は具体的な選考基準について考えていきたいと思います。